トキオブログ

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写真にも記憶にも残りたくない 平野啓一郎『文明の憂鬱』

 平野啓一郎の『文明の憂鬱』の中に写真についての章があった。筆者は作品としての写真を見ることは好きだけれど、記念として写真を撮ること、自分の写真を撮ることは嫌いだと言っている。そしてその理由のひとつとして、自分の記憶過多を挙げている。多すぎる記憶=過去は人間にとって良い意味を持たず、そもそも人間は多すぎる記憶を許容できないような造りになっているのではないか、と筆者は言う。そこで重要な役割を果たすのが人間の忘れる機能である。しかし写真に撮ってしまえば、その忘れられるはずの過去は永遠に変わらない、歪な形で保存されることになる。写真のそういう点が好きではないということだ。

 自分も作品としての写真を見るのは好きだけど撮るのも撮られるのも苦手なので、ほーと思って読んでいたんだけど、写真と同じように忘れられなかった記憶もまた相当歪だよなと思った。特に他人の中に残っている自分の記憶のことを考えると、他人が自分の恥ずかしい過去を覚えているという事実以上に、嫌な気持ちになる。それは他人の記憶の中にいる自分が、たぶん今自分が認識している自分とはかけ離れた、というかまったく異なる別の存在のような気がしてしまうからだ。自分が一体どんな風に他人に記憶されて、そしてそれが自分だとされているのか知れたものじゃない。反対に自分が認識している他人も同じことだ。その乖離は家族でも友人でも同僚でも店員でもどういう関係性だろうと変わらない。お互いを理解するとはどういうことなのか?自分が写真の中に残りたくないのは、人に記憶してほしくないからかもしれない。
 
文明の憂鬱 (新潮文庫)

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