トキオブログ

思うことをうまく文章にしたいです

打海文三『時には懺悔を』

  あたしは無責任にものをいっているのかもしれない 。でも 、いいたいんです 。だって 、家族の悩みっていうけど 、みんな自分の悩みにばかり関心があって 、新くんの悩みには関心がないみたい 。そうでしょ ?

  とにかく子供が頑張っている、打海文三の小説にはそういう作品が多い。今回頑張っている子どもは、脊椎二分症の障害児だ。自力で歩行や排泄といった日常行為ができない、脚の関節が曲がらない、喋れない、知的障害、そういった重度の障害を抱えている小学生の子どもだ。この子どもが実際に何を感じ、何を考えているかは小説の中で一切書かれない。書かれるのは常に、周りにいる健常者たちの動揺や怒りや自分勝手な欲や、上手くいかない人生の辛さなんかだったりする。

奇妙な静けさが訪れた 。三人はテ ーブルの上の写真をのぞき込んで 、彫像のように動かなかった 。佐竹は確信していた 。ほかの二人も 、この子が障害児であることを確信していると思った 。手がかりをたぐったら 、障害の子が出てきた 、というそれだけのことで 、誰もが押し黙っているのだった 。
  この文章を読んだとき、もしかしたら内海文三も家族や近しい人に障害を持っている人がいるのかな、と思った。それくらい、家族にはなじみ深い空気だ。
  なぜいわゆる健常者は障害児と対峙したときに押し黙ってしまうのだろう。それは多分、私たちが障害児を見るとき、生きる意味、未来、神、家族とかいう、人間の存在に関わるありとあらゆる問いが一直線に迫ってくるような気がするからではないだろうか。特にコミュニケーションを上手くとることができない重度の知的障害の場合はそうだろう。「彼らは生まれてきて良かったのだろうか?」という問いに対して、私たちはどんな答えも用意できる。でも、逆に言えばこれという答えが導き出せる訳ではない。そして「この子供(家族)を持った自分は不幸せなのか?」という問いも同じだ。
  この小説は、障害児という存在を通して、いわゆる健常者同士だってお互いに理解し合えているというのは幻想だということを暴いている。そして同時に、障害を抱えて生まれてきた彼らを目の前に、日々悩み、諦め、苦しみながら、彼らに相対している周囲の人間の辛さや無力さ、そして希望や喜びを描ききっている。幸せも不幸も様々な形をとって私達の前に現れるけど、自分がそれをどう引き受けるかが、生の意味ということに繋がっていくのかもしれない。