トキオブログ

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罪と罰と赦しートルストイ「復活」

  大学生の時に手に取った本の中で、自分にとって影響が大きかったものを挙げるなら、トルストイの「クロイツェル・ソナタ」は必ず入れないといけないと思う。人間の性欲という恐ろしい怪物に、ここまで正面からぶつかっていくような作品は小説以外でも出会ったことがなかった。まあそう言いながらも、トルストイの他の小説は長いのでずっと敬遠してきたんだけど、年末年始の休みになんとか「復活」を読み終えることができた。あらすじはウィキペディアによると以下の通り。

  若い貴族ドミートリイ・イワーノヴィチ・ネフリュードフ公爵は殺人事件の裁判に陪審員として出廷するが、被告人の一人である若い女を見て驚く。彼女は、彼がかつて別れ際に100ルーブルを渡すという軽はずみな言動で弄んで捨てた、おじ夫婦の別荘の下女カチューシャその人だったのだ。彼女は彼の子供を産んだあと、そのために娼婦に身を落とし、ついに殺人に関わったのである。
  カチューシャが殺意をもっていなかったことが明らかとなり、本来なら軽い刑罰で済むはずだったのだが、手違いでシベリアへの徒刑が宣告されてしまう。ネフリュードフはここで初めて罪の意識に目覚め、恩赦を求めて奔走し、ついには彼女とともに旅して彼女の更生に人生を捧げる決意をする。本来なら軽い刑罰で済むはずだったのだが、手違いでシベリアへの徒刑が宣告されてしまう。ネフリュードフはここで初めて罪の意識に目覚め、恩赦を求めて奔走し、ついには彼女とともに旅して彼女の更生に人生を捧げる決意をする。

  ネフリュードフとカチューシャの因縁とも言えるこの恋愛を通して、人間にとって罰する/赦すとは何だろう?ということをぼんやりと考えてみた。
  ネフリュードフは刑務所に収監されたカチューシャの元に通う内に、様々な犯罪者たちと関わることになる。そこで不当に拘留され続けている女性や、軽い盗みを犯した若者や、夫を毒殺しようとしたが後に改心して再び夫の実家に戻って家族仲良く暮らしていた女性など、とても罪深いとは言えないような人たちが、極めて一部の重い罪の人たちと一緒くたにされて、罰を与えられているのを知る。ネフリュードフは一つの悪い人間を罰しようとするために、その周辺にいる大した罪を犯していない人まで罰している、当時のロシアの司法制度に違和感を持ちはじめる。育ちも悪くなく容姿端麗なカチューシャだって、ネフリュードフに襲われさえしなければ、罪に問われることもなく、もっと恵まれた人生を送っていただろう。一方で自らの欲望によって一人の人間の人生を壊した罪深いはずのネフリュードフは、外の世界で恵まれた人生を歩んでいる。一体、人間が人間に下す罰にはどれほどの正当性があるのかという疑問が浮かんでくる。罰するという行為は、システマチックに、たやすく行われているけれど、ある罪に対してどの罰を与えるかということは実は人間の手に余るような、すごく難しい問題なのではないか。
  ネフリュードフがカチューシャのためにシベリアで人生を送ると決めたように、一生を償いに捧げることは確かに究極の罰なのかもしれない。ただカチューシャはそれを望まず、ネフリュードフを愛するが故に、別の答えを選択した。
  この小説では、人を罰することの困難さと対照的に、人を赦すことはずっとたやすいこととして描かれているように思った。ふつう人間にとって、憎い、罰を与えたいという感情は自然だと考えられており、愛や赦しの気持ちはハードルが高く、中々難しいと考えられがちだ。それができる人は凄い、偉い、聖人だ、と言われる。でも実際はその逆で、憎しみによって罰を与えることよりも、愛や赦しを与えることの方が人間にとってずっと簡単なことなんじゃないだろうか。それを考えると「汝の敵を愛せよ」のようなキリストの教えが、すごく腑に落ちるような気がした。ああ、このことを言っていたのか、という感じで。

復活 (上巻) (新潮文庫)

復活 (上巻) (新潮文庫)