トキオブログ

思うことをうまく文章にしたいです

老いるということ『ラデツキー行進曲』

   8月下旬からさっぱりしない天気が続いている。今は開高健の『夏の闇』を読んでいる途中で、これがまたじめっとした最近の夜にぴったりの本なんだ。『夏の闇』の次には打海文三の『ハルビン・カフェ』が待機している。
   この前まで読んでいたヨーゼフ・ロートの『ラデツキー行進曲』の舞台は、18世紀末から19世紀初頭のオーストリア=ハンガリー帝国だった。オーストリア=ハンガリー帝国は1867年に連邦国家としてヨーロッパに誕生した。その領土は東欧の広範囲を覆っていて、そこで話されていた言語はウィキペディアによればドイツ語、ハンガリー語をはじめとして、チェコ語ポーランド語、ルテニア語、ルーマニア語スロヴェニア語、ボスニア語、クロアチア語セルビア語、イタリア語という、超がつくほどの多民族国家だった。この帝国に君臨し続けたのがかの有名な皇帝フランツ=ヨーゼフだ。そして彼の皇太子が1914年にサラエボで暗殺されたことで、オーストリアセルビアに宣戦布告、第一次世界大戦へと突入することになる。
 まず、これほどの民族を抱えた国家が51年間も存続できたことに驚く。そしてその大帝国がフランツ=ヨーゼフというたった一人の皇帝と結びついているということにも。その意味でソルフェリーノの戦いで若き日の皇帝の命を救い、貴族に叙されたトロッタとその三代にわたる子孫もまた、オーストリア=ハンガリー帝国と深く結びついていた。
  この小説には「世界の没落」という言葉が何度も出てくる。その世界とはまずひとつにオーストリア=ハンガリー帝国の没落であり、もうひとつはトロッタ一族の没落だ。帝国、皇帝、そしてトロッタ一族の二代目である郡長、彼らは老いた、ある意味で生きすぎた存在として登場する。帝国の没落は国境から始まった。労働者はストライキを起こし、皇帝の名前は呼び捨てにされ、誇りある軍隊の間では賭け事と女遊びが蔓延していた。軍人であった三代目のトロッタは、その環境の中で身を持ち崩し、そののち第一次世界大戦へと従軍することになる。
  この小説は、国にせよ人にせよ、老いるとはどういうことか、熟したものがどう崩れてしまうのかを、積み重ねてきたものを一枚一枚丁寧にはがすように描いていた。まず慣れ親しんだものが失われていくのを見届ける悲しみがある。そして気力の衰え、ある種の虚無感。自分には理解できない新しい時代への不安、その激動の中へと飛び込んでいってしまう子供たちへの愛情。そういうものを読んでいると感傷的な気分になるんだけど、同時にとても親しみぶかい話のようにも感じるのが不思議だった。オーストリア=ハンガリー帝国の崩壊前後というある限定された時代の生き生きとした描写といい、その普遍的な主題の重みといい、名作と呼ぶのにふさわしい小説だと思った。

ラデツキー行進曲(上) (岩波文庫)

ラデツキー行進曲(上) (岩波文庫)

ラデツキー行進曲(下) (岩波文庫)

ラデツキー行進曲(下) (岩波文庫)