トキオブログ

思うことをうまく文章にしたいです

ブログ開設から2年が経って考えたこと

  はてなでブログをはじめてから昨日で2年経った。タイトルの下に掲げている「思うことをうまく文章にしたいです」という言葉はたしか最初に設定したときから変えていない。「思うことをうまく文章にする」、その練習の場としてブログをつくったんだった。この「うまく」っていうのは、自分にとってしっくりくる文章を書くということだった。思うことと発する言葉の境目を縮めることで、自分を形づくることができるんじゃないかと思った。
   村上春樹の『ノルウェイの森』にはミドリと直子という2人の女性が登場する。この2人の女性は、自分の思いを言葉にできるできないという部分で大きく違う。ミドリは自分が思ったことや感じたことを明け透けすぎるくらいにハッキリと述べる。一方で直子は、自分が語るべき言葉を探すのに苦労している。そして精神を病んでいる。この順序だけど、直子は精神を病んでいるから言葉を探せないのではなくて、言葉を探せないから精神を病んでいるのだと自分は思う。
  そしてこの前『ソラリス』というSF小説も読んだ。この小説にはすべてを言葉で説明しようとする人間の虚しい努力が描かれている。惑星ソラリスに到着した主人公の前に、自殺した妻にそっくりの、しかし人間とは思えない女性があるとき突然現れる。主人公は戸惑いながらも、次第にそのよく分からない存在に対して愛情を感じるようになる。その彼女に対して、主人公が妻のことを語ろうとしたとき、彼女がこう言って静止するシーンがあった。「私がその人じゃないってことを知っていてほしいから」きっと言葉にしたと同時に主人公と彼女の中には妻が生まれてしまい、二人の関係はまた違うものになってしまったはずだ。
  『ノルウェイの森』と『ソラリス』を読み終わって気付いたのは、言葉というものが不完全なのはそれが不完全さを許さないからということだった。言葉にした途端、言葉は勝手に形をつくってしまう。なるべきでなかったものまで形を持ち、容易に取り除けなくなってしまう。確かに言葉によって自分を形づくることは人間にとって必要なことだ。それができない人は直子のように精神を病んでしまう。ただ、だからといって、言葉にしたときに失われてしまうものや、言葉にできなかった思いが必要ないことになる訳じゃない。その人間を形作っている部分と、形にすることができない部分の間のわずかな境目を、不完全な言葉をつかって何とかなぞろうとする、小説家というのはそういう闘いをしている人たちじゃないかと思う。その境目にこそ人間にとって重要なものがあるんじゃないだろうか。自分は小説家でも何でもないけど、文章を読むとき、書くとき、自分について考えるとき、そういうことを考える。もし自分もいつかそういう文章が書けたら、きっとそれはしっくりくるんだろうなあと思う。