トキオブログ

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三島由紀夫「金閣寺」の柏木について

 ついに三島由紀夫デビューをした。三島由紀夫とはずっと縁がなくて、今まで一度も読んだことがなかった。よーし代表作からいくかと「金閣寺」を手に取ったんだけど、これがとても面白かった。「金閣寺を燃やす」という結末は分かっていて、そこにいたるまでの主人公の行動や内面の動きは、強烈さというよりジクジクと痛むような暗さがあって、その暗さに少しずつ引き込まれていった。

 この主人公の考え方を逆から照らして、物語を面白くしているのは何といっても級友の柏木だろう。柏木の思想は、主人公と比べて強烈かつ振り切っていて、登場シーンからキレキレだ。冒頭からいきなり長々と行われる彼の独白が面白かったので、読み終わってから整理をしてみた。

 内飜足の柏木はそれが「自分の存在の条件」であり、それによって「女に愛されない」という確信を持っている。「内飜足であっても自分が愛される」という世界を夢想することを嫌い、世界との融和を拒み、自分の存在は内飜足という条件なくして有り得ないと考えている。ある一定の女性たちに好かれる柏木だが、それも内飜足という条件を、彼女達が愛していると錯覚しているだけだと言う。

 柏木にとって愛は存在しないものだ。女に欲望を感じるとき、柏木は仮象にいて、女という実相だけを見ている。その実相は世界の外にある。そして女は女で、女の仮象から柏木の内飜足という実相を見ているにすぎない。愛はいかに相手に近づくかを考えるが、これは仮象が実相に結びつこうとしている迷妄であると柏木はいう。相手との距離を保って実相だけを見る・見られるという関係になれば、そこには不安も愛もなくなるのだと。

そもそも存在の不安とは、自分が十分に存在していないという贅沢な不満から生れるものではないか。

 主人公は世界に近づこうとする度に、永遠の美である金閣寺にはばまれてしまう。主人公は金閣寺を焼くという行為によって世界に近づこうとする一方、柏木は自分の存在の条件を上手く使い、世界の外にある実相だけを重要だと考える。認識によってのみ、世界は変えられると言う。

 柏木の話はややこしくて理解できない部分も多い。ただ内飜足という存在の条件が、柏木の生そのものであり、その生のあり方は柏木以外の人間にはあり得ないことは分かる。そこが彼独自の妖しい魅力になっている。